孝道山歩(こうどうさんぽ)

2019/07/31

表参道の急坂

〜勾配のきつさの裏に 人の手の温もりあり〜

 記録的な日照不足といわれた先月のようやく晴れた日の朝、孝道山の表参道の坂下から境内を見上げました。大黒堂の宝珠が明るい日差しに照らされています。
 ここから大黒堂の立つ境内までは大人の足でおよそ170歩。距離で100b余りですが、坂の勾配はきつく、若い人でも息が切れます。途中、直角に曲がるカーブのところが踊り場になっていて、ここで一息。それにしても、この急な参道、どのようにして整備されたのでしょう?

 ここ「鳥越山」の地に、孝道山の道場(現在の道場の前身)が建ったのは67年前の1952年(昭和27年)7月のこと。元は梅林の丘陵地でした。

 太平洋戦争末期の45年5月29日、横浜は米軍による大空襲に遭い、孝道山もそれまで金港町(横浜市神奈川区)の道場を焼失しました。敗戦後に再建した六角橋道場(同)も疎開から戻ってきた信徒たちで手狭になり、新たな道場が必要となりました。

 そこで48年9月から、道場を建てるための整地作業が信徒の手で行われました。当時の写真を見ると、重機はまだなく、ひらすら人海戦術。丘陵の斜面をつるはしで切り崩しては、土を運び出す作業を繰り返しました。

 「朝8時六角橋道場に集合して1日の無事を祈り、いざ、鳥越山へ。すぐに作業着に着替えて、つるはしやシャベルを握り、土を運ぶリヤカーを引っ張って、皆、汗と泥まみれ。自分たちの道場をつくっているという気概ではつらつとした雰囲気でした」と、作業に参加した信徒が振り返ります。

 当時は車社会が到来する前で、鳥越山の周りも道路は舗装されておらず、町の人はリヤカーを引いて荷物を運んでいました。現在よりもゆっくりした時間が流れていたことでしょう。

 参道の旧坂もこのように多くの人の手をかけて土が削り取られ、歩きやすいように地面がならされました。そして自動車が普及すると、アスファルト舗装が施されました。

 勾配のきつさの裏に歴史あり。人の手の温もりの記憶を一歩一歩に感じながら、きょうも参道を上ります。

2019/07/02

千歳給侍

〜孝順堂への鈴の音は 清らかな心のエール〜

 しとしと雨が降る6月下旬、孝順堂のハスがピンクの花を咲かせました。例年よりも早い開花です。
 ハスは仏教でおなじみの花。泥の中にあって美しく咲くことから、煩悩を解脱して清らかで汚れのない涅槃の境地に至る象徴とされています。
 境内の頂にあり、横浜港や市街地を見渡せる孝順堂は、孝道山を開いた始祖、岡野正道大統理と貴美子副統理のご廟です。ハスの花を眺めていると、白衣を着た5人の女性がお堂から降りてきました。「千歳給侍」を務める人たちです。
 千歳とは未来永劫の意味で、法華経には仏教を説く師に給仕することの大切さが説かれています。孝道山では、孝順堂で始祖に勤行や献膳をして仕えており、1982年(昭和57年)にお堂が建てられて以来、一日も欠かすことなく粛々と続けらています。
 給仕は5人一組で、早朝にご飯、お汁、香の物など精進料理をつくり、岡持ちに納めて午前9時30分に本堂を出発。いでたちは白衣にお袈裟を着け、数珠を持ち、マスク、白手袋。鈴を鳴らして5人が孝順堂へ静々と境内を行どうする姿は、孝道山ならではの光景です。梅雨のこの時期は傘をさした行道がよく見られます。
 午前11時30分にお膳を下げるまでの間、お堂の掃除にいそしみます。下座行です。
 孝道山と縁の深い比叡山延暦寺(大津市)では、伝教大師のご廟・浄土院で僧侶が勤行や献膳などをして仕えています。20年5か月もの間、比叡山にこもり、ご廟に仕えた宮本祖豊師は、孝道山夏季仏教文化講演(2014年)で自らの修行を振り返ってこう語りました。「自分の弱さを認めて、克服することで人の役にも立てる」
 伝教大師は出家者だけでなく、在家者も「菩薩」(人のためになる人材)になる仏教を目指しました。孝道山も在家の人が仏教の教えによって心を磨き、人々のためになる人材を育てるために開かれたお寺です。
 境内に毎日響く千歳給侍の鈴の音はそうした始祖の発心を伝え、ハスの花のように心清らかにあれ、と仏教を学ぶことを励ましてくれます。

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